蔵の観光案内所
〒989-1305 宮城県柴田郡村田町大字村田字町31 TEL 0224-83-6211 |
村田町ふるさとめぐり案内
昭和の初期まで、馬を飼う人を中心に信仰され、毎年6月と7月に祭りが行われていた。 本堂は明治6年に移築。3間四方の観音開きで、屋根は宝形である。 現在は、縁結び、交通安全、家内安全を祈願する人が多い。
長吉は足立の貧しい農家に生まれた。母が病気のため家を出たので、体の不自由な父と二人で暮らしていたが、孝養を尽くし村の評判となり、宝暦2年(1752年)藩主伊達宗村公より表彰された。 その善行をたたえ、この碑を建てたという。 町の守護神として祀られました。 永享3年(1431年)藤原政望・久重父子が寄進したといわれています。
寛永15年(1638年)仙台の伊達家の奥方が母乳を授かるように祈り、それがかなえられたお礼に、参道中段左右に楓(かえで)を一本ずつ植えたという。 今も、みかげ石鳥居の左側に1本残っている。
この石に関して、次のような伝説がある。 「昔、姥ヶ懐に姥(うば)が住んでいた。ある日、姥が金太郎を背負って川に行き、帰りに坂を登る時、あまり重いのでそばの石に手をかけたら、その石に手の跡がついたという。」 またこんな伝説もある。「京都で渡辺綱に片腕を切れらた鬼が、その腕を取り返そうとして、姥の伯母に化けてまんまと腕をさらい、いろりの自在かぎを伝って逃げて行ったという。鬼が逃げる時、すべってころんで手をついた跡が『手掛石』なのだという。」
明治41年、嘉仁親王の東北行啓を記念して、公園を拡張し運動場を設けた。 眺めがよく、町民の憩いの場となっている。
太さが周囲2~3メートルもある大きな赤松で、数本の太根が地上にあらわれ、かごの形に見えることから、この名がついた。
寛永4年(1627年)供養のために建てられた五輪塔がある。 この塔には『玉の緒の絶えなんことは惜しからじ君の情を思ひ合はさば』と、高橋清三郎の辞世が刻んである。
現在も、字町地区の県道の両側を中心に、その当時の土蔵がたくさん残っていて、その頃の繁栄を物語っている。 眺めがよく、町民の憩いの場となっている。
高き1m30cmの石塔に、不動明王の印の梵字(ぼんじ)一字と文久元年(1861年)が刻まれている。
寛永3年(1826年)20歳という若さで死去した。廟(死者の霊を祀る所)は、龍島院境内の西北方の丘にある。【龍島院について詳しくはこちら■←をクリックして下さい】
ある日、使用人のひとりが、家宝の金の茶釜を洗っているうちに、誤って深い渕に沈めてしまった。主人にしかられるのを恐れ、すぐ渕に飛び込んだが再びあらわれなかった。 里の人は、その心をあわれみ供養しいつしか「茶釜ヶ渕」という名がついた。 長者の家も、やがてほろんでしまったという。
身体にいぼの出た人が、ここにあるすりこぎでこすると、そのいぼがとれたという。治った人はお礼にすりこぎを二本あげた。 また乳の出ない婦人が祈願すると乳が出たという。そのほか味噌を作った時、味噌がすっぱくならないように祈った。
この祠の中に、将軍地蔵が祀られている。
北側と西側の杉林の中に、幅15m位の空堀がある。 古舘の主人だった田手宗美(だてむねざね)の墓は、古舘跡の八幡社の大桜から50m位登った所にあったというが現在は不明である。
太さが周囲2~3メートルもある大きな赤松で、数本の太根が地上にあらわれ、かごの形に見えることから、この名がついた。 |